エッセイ教室(入門)セミナー

⑥生徒さんの作品が、大きくレベルアップ

2019.3.22更新

3月の教室も全員出席。今回は、読者の心をグリップする「書き出し」の書き方をテーマに勉強しました。また、生徒さんの作品が、大きくレベルアップしたので、前月の作品合評より時間をかけた意見交換をしました。皆さんから好評の作品三点はこのHPに掲載しました。

★プロのエッセイ三点

 

①「わが一期一会」から  井上 靖  *自分に課したエッセイから学んだものは?

 

「わが一期一会」では、自分の過去を埋めている茫々たる磧の中から、そこだけ煌めいて見えている小さな石ばかり拾って来たような気がする。しかし、そうしたものを拾ってゆく作業はたのしいものであった。第一回の筆を執った時は、ひどく厄介なものを始めたような気がして、さまざまなことが思いやられたが、書き進むにつれて、たのしい作業になった。茫々たる磧の中から、そこだけきらめく小さな石を拾ったと記したが、そうした石は想像していたよりたくさんあった。おそらくこうした作業を自分に課さなかったら、そうした石たちは決して拾うことはできなかっただろうと思う。

人間というものは、自分が恩恵を受けたたくさんのことを、それを思い出そうとしないと思い出だせないものであることを、こんど強く感じた。別の言葉で言うと、森羅万象から自分が受けたたくさんの恩恵を、いつか忘れてしまっているのである。 

 

②「今夜も思い出し笑い」から 林真理子 *人間観察力の確かさはさすがです。

 

す、すごい。どうしたらこれほどいつも結婚披露宴に行く時のような格好をしていられるのであろうか。常に綺麗で完璧で、高級感がある。千疋屋のウィンドウに飾られているメロンみたいだ。「そりゃあ、男の人の眼を意識しているからよ」という意見もあったが、それは同意しかねる。彼女たちにそういった計算高いところはなく、人妻という要素もあるのか、私が思うに、これはもう観念の勝利というべきものではなかろうか。

「女性はいつも美しくしていなければならぬ」

という命題を、彼女たちは幼い頃から自分に課していたに違いない。命題というのはブルジョアにはつきものだ。そして観念によって生まれたファッションゆえに、彼女たちの装いは当然保守的である。

成人してから仕事の性格により、シンプル、先鋭カジュアル化をたどったマスコミ業界の女性たちとは対照的といってもいい。着るもののことをたかが包装紙という人がいるが、この包装紙に女のそれまでの人生や人格は如実に現れているのだ。だからこそ必死になり多くのものを賭ける。

ひさしぶりに買い物に行きたくなった。 

 

③エッセイの書き方① ことばを選ぶ 尾崎左永子

 

「いくら詩心持っていても、それがことばによって表現されないかぎり、それは詩とは呼べない」と言われていますが、これはエッセイにおいても同じことです。いくら高尚な意見を持っていても、すぐれた感性でものの本質を捉えていても、それが過不足なく表現されない限り、十分読者の心に伝達されることはないのです。

「過不足なく」と書きましたが、初歩の方でとくに文学志向のつよい人は、とにかく筆にまかせて「書き過ぎる」傾向があります。自分は文章が巧い、と自負している人は、つい筆がすべり易く、かつことばを飾りやすいのです。あふれるようにことばを用い、これでもか、これでもかと精細な形容を積み上げて満足そうです。しかしうっかりするとそれは自己満足、自己陶酔の域にとどまり、読者をうんざりさせることがあります。                                              

「巧い文章」を書く必要はないのです。「佳い文章」「快い文章」を心がけることが大切でしょう。反対に、いくら書いても書いても、何かバサバサして奥行きがなく、身辺雑記を書いてみてもどこか常識的で、文章に魅力の生まれないタイプの場合。中略。非常に真面目で几帳面な人が多いようです。表現も常識的で個性に乏しく、平板になり易い。社会人としては「よく出来た人」と評価されるタイプの人に、往々にして表現の「不足」型の人を見かけます。こうした人には「もっと本当の自分を知りなさい」、つまり良いところも悪い所を含めて、現在の自分を正確に見つめ、そこに立脚して書くことを私は勧めます。そしてもうひとつ「ことばをもっと好きになって下さい」とすすめます。

 

★エッセイの書き方 書き出しを学ぶ 講師 

 

エッセイを書こうとするとき大切なのは、読者の心をグリップする主題と、読者の心を動かす分かりやすく快い文章表現です。そこで誰もが苦労するのが、書き出しの文章表現です。書き手は、この一、二行で、書きたい主題に迫ることができるかが決まりますし、また、読者の側では、主題の面白さ、言い換えれば読んでみたい興味が生まれるかどうかが決まります。これから、エッセイを楽しむとき、その書き出しを意識し、心に残ったものはノートすることをおすすめします。

★生徒さんたちのエッセイ三点

 

①久保田和代さん 鶏冠(とさか)

 

真っ赤な鶏頭が咲くと幼年時代の記憶が蘇る。あれは、私が三歳の秋だった。

農業を営む我が家は、一家総出で、庭つづきの畑で、刈り入れた豆を干したり、稲刈りの後始末で大忙しだった。小屋から放たれた、十羽の鶏も、庭や畑を飛び回り遊んでいた。

その中の一羽が、私の洋服の長いリボンに反応したのか、赤い鶏冠を揺らし「コッコ、コッコ」と追いかけて来た。私は恐くて恐くて、ワアワア泣きながら逃げ回った。その声を聞きつけた、牛松爺さんが「このやろう」と走って来て、すぐさま、鶏の首を絞めたというのだ。

その夜は、鳥鍋だった。まだ家に居た、政夫叔父さんが、嬉しそうに「和代のおかげで、鳥鍋だ」と、言った。そして、少し残念そうに「まだ卵を産む鶏だったのになあ」とも言い、溜息混じりに「爺様は、和代が可愛くてなあ」と、言った。私は牛松爺さんの初孫だ。父や、叔父や、叔母にとっては、短期で気性の激しい、牛松爺さんは、恐い父親だったそうだ。言うことを聴かないと、蔵に閉じ込めたり、柿の木に縛りつけたりしたという。可愛がられた記憶などないそうだ。

その日、庭や畑で、たらふく、ミミズやコオロギを食べた九羽の鶏は、目が見える、夕暮れ前に、赤い鶏冠を左右に揺らしながら、めいめい、小屋にもどったそうだ。なにごともなかったように。

 

②加藤泰子さん 春を待つ

 

どの季節が一番好きですか?と聞かれたら迷うけど、どの季節が一番待ち遠しいですか?と聞かれたら、間違いなく春と答える。

春を待つのは楽しい。北風がピューピュー吹いて凍えるような寒さでも、2月になると梅や沈丁花の蕾が膨らんで赤みを帯びてくる。庭で枯れ草をかき分けると、6月にすっきりと紫の花を咲かせるアヤメが小さな濃い緑の芽を出している。

春は英語ではスプリングと言うが、辞書を引くと、弾ける、生ずる、湧き出る、跳ねて踊る等の意味がある。草花も地中から弾き出て、人も解放されて跳ねて踊り出すのかもしれない。

そういえば私も小学生の頃、春が近づくと机の上に歌の本を広げ、春の歌を片端から

歌っていった。あきれる家族の中で普段寡黙な父が、「まだ早春賦歌ってないよ。」と声を掛けてくれ、嬉しくて何度も歌ったのを覚えている。あれはきっと何かに突き動かされ、私なりに春の来る喜びを表現していたのかもしれない。

長い間待ってやっと来る春。春が来た、と感じるタイミングは人それぞれだと思うけど、私は朧月夜の日、満開の桜並木を見上げながら歩いている時、一番春が来た、と感じる。

 

③宮部恭子さん 思いがけない訪問客

 

「ピーとりちゃん、ピーとりちゃん」(鳥の声)

日曜日の朝、私はびっくりして飛び起きた。外から、ひと月前に死んだ瑠璃腰ボタンインコのピーちゃんの鳴き声がするではないか。急いで寝室の窓を開け、声がする方を目で探した。居ない。また、「ピーとりちゃん!」の声。今度はベランダの方から聞こえる。走って行ってドアを開け、キョロキョロとまた探す。向かいの家のアンテナの先にとまっている灰色の鳥が、声の主らしい。驚きの目で見つめる私としばらく目があったが、それはすぐに青空へと飛び去って行った。何とも言えない興奮が冷めやらぬまま、私は階段を下り、息子を起こした

(私)「今「ピーとりちゃん」って鳴いてる鳥が外に居たんだよ!」

(息子)「あっ、それ、ピーちゃんの友達」

(私)「えっ、ピーちゃんの友達?」

(息子)「時々朝、窓の外に来て、ピーちゃんと鳴き交わしてたやつ。お友達だよ。」

そうだったのか。ピーちゃんには、仲良しのお友達がいたのか。

冬の寒い時期は日当たりのよい二階のサンルームの窓辺に、夏の暑い時期は一階の北側の涼しい窓際に鳥かごを移動させ、朝起きて籠から布の覆いを外し、夜にはそれを掛けてやるのは私の役目だった。手乗りに育てていたので、いつも遊んでほしいとばかり嘴でがちゃがちゃと籠の柵をかんでは、外に出たいアピールをしていた。なかなか出してもらえないと、いよいよ大きな声で「ピーとりちゃん、ピーとりちゃん!」と鳴き続ける。こちらも掃除に買い物、食事作りと、一緒に遊んでばかりやる訳にもいかず、あまりの甘えん坊ぶりに閉口したこともある。が、ピーちゃんが死んだあと、部屋の隅に、本棚の隙間に、緑やオレンジ色の羽毛がふわふわと落ちているのを見つけると、掃除機を掛けながら涙がこみ上げてきたものだ。何とか悲しみを忘れかかった頃、ピーちゃんの発音指導を受けたお友達が、足(羽)繁く我が家を訪れ、「ピーとりちゃん!」と一声二声鳴いて去っていく。

ピーちゃんが死んでから、もう半年。発音の明瞭さに陰りが出てきたものの、まだ、お友達の訪問は続いている。

⑤生徒さんの楽しい作品三点を紹介しましょう

2019.3.22更新

生徒さんが全員、エッセイを書き始めました。プロの作品とは違った、ほのぼのとした生活実感がある素晴らしい作品ばかりです。今回は、そのうち三点を紹介しましょう。

プロの作品は、エッセイを書く上で参考になる、作品を紹介しています。

 

◆なお、教室では、エッセイを書く上で参考になる、参考教材で実践学習をしているほか、生徒さん達の作品合評を楽しみながらレベルアップを図っています。

★プロのエッセイ三点

 

①「硝子戸の中」から 夏目漱石   *作者の心の動きが見事です。

 

中一日置いて打ち合わせた時間に、電話を掛けた男が、綺麗な洋服を着て写真機を携えて私の書斎に入って来た。私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚撮ってもらった。一枚は机の前に坐っている平生の姿、一枚は寒い庭さきの霜の上に立っている普通の態度であった。書斎は光線がよく透らないので、機械を据え付けてからマグネシアを燃やした。その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」といった。

私はその時突然かすかな滑稽を感じた。しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。私は「これでいいでしょう」といったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭の木立の前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた同じような丁寧な調子で、「御約束では御座いますが、少しどうか・・・・」と同じ言葉を繰り返した。私は前よりもなお笑う気になれなかった。 

 

②「生きるヒント 歓び」から 五木寛之  *平易な表現、テーマの面白さが見事です。

 

先日、ある雑誌のインタヴューアーから、「五木さんがもっとも苦手とするタイプの女性は、どういう女性ですか」と、いう質問を受けました。(一) ちょっと考えると簡単に答えられそうで、じつはあらためてふり返ってみると返答に窮することがあります。

意地の悪い女性。虚栄心のつよい女性。なまけ者の女性。嫉妬心の塊のような女性。差別感のつよい女性。嘘ばかりつく女性。だらしない女性。などと、いろいろ考えるのですが、決定的な結論がでません。ひとりよがりの女性でも、やきもちやきの女性でも、ひとつ素晴らしくチャーミングな部分があれば、その輝きがすべてを消してしまうことがあるからです。

古今東西、世の男たちが悪女と言われる女性に心奪われがちなのは、小説や映画の題材で、しばしば周囲に見られるところです。

逆にほとんど欠点がない女性を想像してみますと、これはあまり魅力を感じないような気がする。人間というものは、まことに勝手なものではあります。しかし、何とか質問に答えねばならないので、ふと思いついたことをしゃべりました。「ぼくは〈よろこび下手〉な女性が苦手です」と

 

③エッセイを書く心得①  尾崎左永子 歌人・作家

 

絵を描くのにさまざまな方法があるように、文章にもじつにさまざまな方法があります。それは作者の性格にもよりますし、文章に対する考え方や目ざす方向によっても異なります。ここでは「エッセイ」という、小説や詩、論文とは異なった領域において文章を書こうとする際に心得ておくべきことを、私なりに幾つか述べてみます。

ただ書きたいから書く、好きなように書く、というだけでもむろん文章にはなるのですが、それでもなお、文章には基本というものがあると思うのです。その土台がしっかりしていないと、読者に正確に伝達することができません。      

最初に必要なのは、「何を書きたいのか」〈主題〉をはっきりさせることです。たった一つの素材からでも、また有り余る題材からでも、自分の書きたい、そして人に伝達したいことを絞って行くこと、そのためには自己独特の視点をしっかり持つことが大切でしょう。

二つめには「文章の規模」を把握する訓練が必要と思います。たとえば三百枚の大作をはじめから意識していく場合と、反対に、決められた枚数、たとえば四百字詰一枚に書く場合、四枚の場合、十枚の場合、二十枚の場合。同じテーマであっても、切り取り方法、対象への切り込み方法は、それぞれ異なります。中略。

三つめは、「表現」に関して、しっかりした自分の文体を確立して行くこと。これには或る種の技術と経験が必要です。一つめの「主題・視点」については他にも取り上げられると思いますし、二つめの「文章の規模の把握については略述しましたが、三つめの「表現の技術は、私のこの稿でもっとも言いたいことでもあり、もう少し具体的に考えてみたいと思います。

★生徒さんたちのエッセイ三点

 

①市村 ひとみさん 靴

 

 先日たまってしまった靴の整理をしました。物置の棚に積み上げられた箱を一つ一つ開けて見ると何と懐かしい靴達が。

 ママさんコーラスで揃えた白いパンプス。甥の結婚式に履いた先の細いハイヒール。夏の洒落たサンダル。足元を暖めてくれたブーツ。デザインも気に入っていました。白いパンプスは二十年余前の物なのに殆ど痛んでいないのです。どれもまだ履けそうに見えるのです。でも、もう履かないし履けないでしょうね。

 こうして靴を眺めていると、その靴を履いた時のシーンが蘇って来るのです。例えば白いパンプスからは、舞台に上がる時のヒールのコツコツという音。洒落たサンダルからは友と訪ねた避暑地の風景が。軽やかに闊歩していた若い頃の私が。

 今、玄関にある下駄箱には歩きやすいウォーキングシューズが並んでいるのです。

 

②久保田 和代さん 鰍(かじか〉

 

親戚のアキラ君は、小学六年生だ。私が一年生になった夏、徒歩三十分の田川へ鰍とりに連れて行ってくれた。田圃道をアキラ君の後を追って歩いた。途中でアキラ君がコッペパンを半分にして、二人で食べながら歩いた。無口なアキラ君は、何もしゃべらなかった。けれど、田川の土手から川に降りる時は、手を取ってくれた。

裸足になって川へ入ると汗ばむ足に心地よかったが、つるりと滑る石があった。すかさず、アキラ君は「滑るから転ばないよう気をつけろ」と、言った。そして、私が遊べそうな浅瀬を見つけると、手で鰍をつかまえる方法を教えてくれた。

石をそっとのけると、小さな鰍がいた。胸がドキドキした。鰍は、すばしこくて、私にはつかまらなかった。アキラ君は、膝まで川につかりながら、箱メガネで鰍を追った。時々、私にも箱メガネを覗かせてくれた。大きな鰍が川底を泳いでいた。目がまんまるになった。鰍とりが上手なアキラ君は、つかまえるとニコニコしながら、私の両てのひらに乗せてくれた。ぬめぬめとした十センチ程の鰍は、頭が大きくて、不細工な顔をしていた。

アメ色の川に木漏れ日がきらきらと煌めき、アキラ君も私も、風に揺れる木漏れ日に包まれていた。

 

③鈴木禎治さん  多摩川かぜみち

 

運動といえば歩くだけとなってしまった今日この頃。押立町住人の私は「多摩川かぜのみち」を散歩している。多摩川堤のウオーキング、ジョギング、サイクリングの専用道だ。稲城大橋から調布との市境までの5000歩/50分を歩いている。

この道の素晴らしいのは、日々変化する多摩川の流れと鳥たち、対岸には多摩丘陵、その奥には丹沢山地から富士山、上流方向には奥多摩の山々、と雄大な景観を楽しめることだ。

天候による多摩川の水量の変化は大きい。ごうごうと河幅いっぱいに流れる時もあれば、なんと数メーターの川幅に狭まる時もある。今がそうだ。ちょっと差が大き過ぎる気がするが、水量は少ない方が安全なのだろう。かつては台風により堤防が決壊した狛江水害もあった。

鳥たちはいくつもの群れをなして飛びまわる。2羽でじっと動かず魚を待つ夫婦鳥?もいる。捕れたのかなと気になる。

多摩川かぜのみちの景観で最も素晴らしいのは夕日が富士へ沈む時だ。しかし残念だが富士の周りには、天候が良くても雲があることが多い。府中では11月21日、1月21日に、夕日がぴたりと山頂へ沈むダイアモンド富士がみられるはずだが、なかなかそうはいかない。快晴の1月21日を待っている。

④新しい仲間が五人加わりました

2019.2.11更新

一月から、新しい仲間が五人加わり九人になりました。
そこで、最初は有名人の「エッセイの考え方二点」を読んでのグループディスカス。意見交換が進むと、受講生の気持ちに火がつき、その後講師のエッセイ二点で、再度のディスカス。最後は、受講生の作品発表で盛り上がった三時間になりました。


★私の感想 プロのエッセイも良いが、受講生の作品は、より身近で、親近感のある作品で心に迫るものがありました。それと、もう一つ。前回と比較にならない大きな進歩にびっくりでした。教材の一部と、受講生五点のエッセイのうち、二点をを紹介します。

★プロのエッセイ二点

①エッセイは筆のおしゃべり 山川静夫 元NHKアナンサー

 

エッセイは筆のおしゃべりだと私は思っている。
もちろん、話しことばと書きことばのちがいはあるにせよ、楽しいエッセイは、仲良しの友人からいい話を聞かせてもらっているのと同じ喜びを感じる。
その反対に、おもしろくないエッセイといえば、いやなおしゃべりを思い浮かべるがいい。尾ヒレをつけ、事実を曲げた装飾過多の多弁は誰だっていやだし、知識をひけらかすペダンチックな話もいやだ。また、自分ひとりだけが面白がって、聞いている人にはひとつも楽しくない話のネタも困ったものだ。 *ペダンチック=学者ぶる
中略。いいおしゃべりやいいエッセイは、自然体でいながら筆者のよき人柄やよきセンスがにじみ出るものなのだろう。


②見極める力 辰野和男 元朝日新聞・天声人語執筆


おもしろい、ということが特別の価値をもつようになったのは戦後のある時期からでしょうか。テレビの影響が大きいのかもしれません。
おもしろいことは大賛成ですが、ものごとをすべて、おもしろい・おもしろくないで分けてしまうとどうなるか。大衆社会文化の落とし穴は、万事がデジタル風におもしろい・おもしろくない、かわいい・かわいくないで瞬時に分別され、それが視聴率や販売部数やらに響き、従って世の中を動かす力になる、という点です。
オモシロイ反応せよ、カワイイ反応せよ、そこにはたぶんに付和雷同が働いている。とことん、ものごとの個性を見極める営みはむしろ遠ざけられている。そういう心配があります。付和雷同のいやます世の中であれば一層、他人の目とは違った目を持ち、ものごとを自分の目で見極める力をたくわえたい。中略。自分の愚かさ、自分のいい加減さ、自分の志、自分の寄る辺を深めるためには、はてしない修行の旅を続けるほかはありません。己を深く見極める力をもった文章は熟成した香りを放つ、と信じたい。

★講師のエッセイ二点

◆年越し餅

 

 生協から買った鏡餅を組み立てながら昭和二十八、九年の北千住の年の瀬を思った。当時は朝鮮戦争後の景気回復で、クリスマスケーキを食べられるような家もあったが、ほとんどの家では三が日の餅を買うのも大変だった。
大晦日のボーナスで、やっと餅を買えた家、そのボーナスも入らず借金も返せず正月を迎えた家も多かった。
米屋の子供で中学生だった私も大晦日は忙しかった。借金を返せなかった勤勉な家には、除夜の鐘が始まると、返済の督促を止め、餅を配らねばならなかった。 (三)
家族の人数分だけの切り餅と、神棚用の一寸餅一個を配る家が何軒かあった。元日の朝だけは餅を食べられるようにしたのである。
勝手口を開け「宮城屋です」とそれだけの言葉をかけ、わずかな餅を置いてくる。「すみません」と声が返ってきても、その家族とは目を合わせずに帰ってくるのが父から教わったマナーだった。おそらく、父が深川の米屋の丁稚奉公時代に身につけた流儀だったのだろう。
その後、日本は目を見張る経済成長を成し遂げ、豊かになった。そして、今ではそんな貧困の時代はすっかり忘れられてしまった。しかし、私には当時の思い出が何故か忘れられないでいる。もう、時代遅れの人間なのだろうか。

◆七十代の恋


 文豪ゲーテは七十四歳で、十九歳の少女に恋をした。結果は残酷。親類の孟反対で、結婚ができなかった。恋の始まりは十七歳だった少女のウルリケ。ゲーテへの憧れであった。そして二年後、美しく成長したウルリケにゲーテが恋をしたのだ。
 こんな出来事が、七十代になって気になり始めた。当時の詩を読むと、気持ちだけは若くなる。ゲーテの気持ちも分からないでもない。
だが、まてまて、これは文学の世界の幻想なのだろう。どんなことがあっても、もう恋心など生まれまい。妻もいるではないか。これまた現実で、燃える心のエネルギーがない。あるのはせめて、親心のような優しさぐらいだ。でも、それもよかろう。せめて、七十代男が女性へ寄せる思いやりを忘れたくないものだ。

★生徒さんのエッセイから二点

◆市村 ひとみさん〈森永マリービスケット〉


  今から十五年前、今は亡き義母は東京女子医大病院に入院。七時間にも及ぶ消化器の大手術を受けました。当時七十四才の母にとって快復するまでは大変でした。術後最初に出された食物がタマゴボーロ。次にあのマリービスケット二、三枚だったかしら。それも中々食べられなかたように記憶しています。ボーロやビスケットがでるのかと私は意外に思いました。そして二ヶ月余りで何とか退院することができました。
誰でも子供の頃に一度は食べたであろうビスケット。調べてみました。マリービスケットという名前はフランスの王妃マリーアントワネットに由来しビスケットの周りのデザインは家紋を表現しているといわれ世界中で親しまれているということです。因みに一枚当たり二十四キロカロリーです。
懐かしくて一箱買ってしまいました。                       
◆鈴木禎治さん<三歳までは神の内>


ただそこに居るだけで、人を喜ばせる存在がある。それはしっかりと歩けるようになった二、三歳の子供だ。
さっきも交差点の信号待ちで、ママだけでなく、周りの誰にでも笑顔をくれる子がいた。
興味深そうに周りを眺めている子がいた。爺婆はその顔を見るとついニッコリしてしまう。
しゃがみ込んで、その子とハイタッチをしたくなる。ホントに可愛くて、幸せな、なにか豊かな気持ちにさせてくれる。
ところが小学校に入るとランドセルに非常用の警報ブザーを付けている。そうなると
爺婆は近づいてニッコリも出来なくなる。警報ブザーを鳴らされると困るからだ。
三歳までは神の内と言われているが、本当に爺婆にとっては神、天使だ。うちの孫にも可愛い天使の女の子・男の子がいる。今が、天使にとっても爺婆にとっても最良の円満な時なのだ、幸せな時なのだ。
成長していくその先は、大人へ向かって走り去っていく。後ろ姿を眺めるだけになってしまう。爺婆は何度も取り残されてしまう。

③受講者の初めての作品は?

 2019.1.3更新

セミナーの三回目は、受講者の作品を合評して学ぶ初めての勉強会でした。皆さんの最初の作品は、素直に書けた作品もありましたが、正直、文脈が未整理な作品もありました。

 

最初の作品だったので、力が入り過ぎたのでしょうか。作者が書きたい気持ちが前面に出過ぎて、読み手が作者の世界を理解しづらいところもありました。

 

ところがどうでしょう。12月末締め切りの二度目の作品は、すっかりレベルアップして、驚くばかりです。1月9日の勉強会は、どんな合評会になるのでしょうか?楽しみです。

◆HPで学んでいる皆さんに、三回目のセミナーの教材の一部を紹介します。

 ただ歩く。手に何ももたない。急がない。気に入った曲がり角がきたら、すっと曲がる、曲がり角を曲がると、道の先の風景がくるりと変わる。くねくねとつづいてゆく細い道もあれば、おもいがけない下り坂で膝がわらいだすこともある。広い道にでると、空が遠くからゆっくりとこちらにひろがってくる。どの道も、一つ一つの道が、それぞれちがう。

 

街にかくされた、みえないあみだ籤の折り目をするするひろげてゆくように、曲がり角をいくつも曲がって、どこかにゆくためでなく、歩くことをたのしむために街を歩く。とても簡単なことだ。とても簡単なようなのだが、そうだろうか。どこかへ何かをしにゆくことはできても、歩くことをたのしむために歩くこと。それがなかなかできない。この世でいちばん難しいのは、いちばん簡単なこと。 

 

(詩人 長田弘「散歩」)

 ◇エッセイ 主題 辰濃和男

 

詩人長田弘に「散歩」という作品があります。私の好きな文章です。

 

主題がはっきりしています。一つは「歩くことをたなしむために歩く」というつぶやきです。主張、提唱という声高なものではなくて低いつぶやき声ですが、耳にこころよく響きます。この主題は、作者にとっては、深く、しかもひろがりのある鉱脈から生まれたものでしょう。

 

歩くことをたのしむために歩く。すると「みえないあみだ籤の折り目」が広がってゆくように、街がみえてくる。主題がはっきりしているから、つぶやきに説得力があります。自分もひとつ、歩くことをたのしむために歩いてみようか、という気になります。 

                                      

もう一つは「この世でいちばん難しいのは簡単なこと」という主題です。歩くことをたのしむというのは、簡単なようで実はきわめて贅沢なことです。ゆとりがなければ、なかなか歩くことをたのしむ気持ちになれません。私たちの暮らしは極力、むだを切り捨てようとしています。無用の用は大切だとわかっていながら、実際の暮らしでは無用は切り捨てられます。「歩くことをたのしむ」という第一の主題が、ここでさらに広がり、無用の用を大切にすることの難しさを考えることになります。

 

*辰濃和男 元朝日新聞論説委員(天声人語執筆)著書「文章の書き方」他

 

本日のテーマ 

 

①「主題がはっきりしているか ②つぶやき(主張)に説得力があるか ③文章にリズムがあるか

  

進め方

 

まず、「その作品の良さは何か、そこはどこか」を見つけ出してください。

 

次に、主題がはっきりしているか、つぶやきに説得力があるか、文章にリズムがあるかの感想を述べてもらいます。

 

最初に講師の作品を教材に、その学び方を試してみます。

   

◆講師の教材エッセイ〈夫婦

 

十一月二十一日は僕の結婚記念日、ふと、気がついてみると、来年は金婚式になる。振り返ると、性格が正反対の二人が、見合い結婚で出会い、なぜ、こんなに長く夫婦喧嘩もせずに暮らしてきたのだろうかと思う。

 

独身時代はテレビを見ることがなかった僕とテレビ大好き人間の妻、都会風の食事の妻に田舎風の僕、清潔好きな妻に不潔で不精な僕。それに片付けができない僕。貧乏性の僕に、やや浪費型の妻。日常は朝から妻の小言が絶えないし、僕には対抗する言葉もない。

 

それなら、一人で気ままに暮らせばいいじゃないか思うのだが、そういう気持ちにはならない。一日でも一人で過ごせば、虚無感のような淋しさが襲ってくる。小言を聞かない日は家にいるような気がしない。この二人の関係って何なのだろう。結婚生活が長くなればなるほど、夫婦二人の関係が不思議でならない。

 

*このエッセイは受講者の声を聞いて推敲した後のものです。

② エッセイを書く準備を学び合って、盛り上がった結果は?

2019.1.3更新 

セミナーの二回目は「エッセイを書く準備」。朝日新聞の天声人語で活躍した辰濃和男氏の考えを紹介し、グループごとに討議をしたあと、テーマが同じ三つの教材エッセイと、日常をテーマにした教材エッセイで、再度、グループ討議をしました。すると、「頭が整理できた」「まずは、短いエッセイを書いてみたい」ということで盛り上がり、それをみんなで次回合評してみようということになりました。その結果は次回です。

◆HPで学んでいる方に、二回目のセミナーの教材の一部を紹介します。

 

◇エッセイ 主題・現場・鮮度・見極め  辰濃和男

 

書きたいことを書く。書きたいから書く。これが文章の出発点です。当たり前のことじゃないかとあなたは言うかもしれません。しかしどうでしょう。あなたは本当に書きたいことを書いているのでしょうか。そのことを限りなく自分自身に問うことが大切です。何を書きたいのか、読む人に何を伝えたいのか、その点があいまいでは、いい作品が生まれません。

 

取材をしていて、地中深くの鉱脈にぶつかった、という手応えを感ずる時があります。鉱石を掌に乗せて見る。その瞬間の驚きが強ければ強いほど、文章の主題は明確になります。主題のはっきりしていない文章は失格です。

 

書きたいことを書く。さらに厳しい形でいえば、「書きたいことがこころにあふれてくるまで書かない」ということにもなりますが、ありていにいえば、私自身、書きたいことがこころにあふれてくる前に、筆をとることがしばしばありました。そういうときは書き直しては止め、ということを繰り返します。そのうちにやっと鉱脈が現れてくる。鉱石さまさまを拝みつつ一行目から書きはじめる、ということになります。

 

いくら書き直しても鉱石が見つからない時があります。頭が硬くなっているのです。机を離れて逆立ちでもするか、公園でカラスの声でも聞くか。なにかで頭をほぐすことが必要です。試験の作文や文章の通信講座では「題」が与えられます。与えられた題では書きたいことが書けない場合もある、とあなたはいうかもしれません。その場合は「書かねばならぬ」ことを「書きたい」ことに翻訳する必要があります。

*辰濃和男 元朝日新聞論説委員(天声人語執筆)著書「文章の書き方」他

 

★参加者の心を動かした短いエッセイ 講師の教材

 

<花には水を>

 

◇月二回、千葉の花屋さんから季節の花が届く。それが妻の楽しみだ。毎朝、水を、変えるのだが、花の命は短い。すぐ萎れてしまう花もある。そんな時、花の品質保持剤を加えると見違えるように元気になる。やっぱり花は水だ。そういえば種の起源を書いたダーウィンはこんな言葉を残している。「花には水を、人には愛を」。その言葉を思い出した時、ふと、妻への愛を思った。

① エッセイ、エッセー、随筆、随想・・・。どこが違うの?

10月から、地元府中市でエッセイ教室を開講しました。参加された方は11名。開講初日は、予想もしない楽しい勉強会になりました。

 

といっても、最初は「何が始まるのだろ」という、やや緊張気味の重苦しい雰囲気です。

そんな中で、「エッセイ、エッセー、随筆、随想・・・。どこが違うの?」という話をせねばと思い、モンテーニュのエッセー、日本エッセイスト・クラブ会長の村尾清一の「エッセイとは何か」を紹介し始めると、これが馴染みません。参加者は「頭が混乱してしまう」というような雰囲気の一校時目でした。

 

ところが、二校時目、作者を伏せた著名人のエッセイの書き出しを並べた教材で、「なぜ、あなたはそのエッセイが好きですか?」というグループディスカスを始めると、教室の雰囲気は一変してしまいます。一人ひとりの発表も十分にできずに、あっというまに一時間が過ぎてしまいました。

 

そして三校時目。葉書エッセイをイメージした三例の読後感で、グループ分けをして、考えを深めようとすると、「こんなのエッセイじゃない。メールと同じだ」というグループも生まれて「エッセイとは何か」という話が一気に盛り上がり、グループのディスカスの結論がはっきりできないまま、その日の三時間の勉強会は終わりました。

さて、皆さんは、次の三例の教材エッセイをどう感じますか?

◆葉書エッセイをイメージした教材

◇教材1

 十月ね。元気?今日は青空に誘われて、裏高尾を歩いちゃった。もう、山には登れないから、渓流沿いの道をぶらぶらしたの。川風が冷たいのよ。驚いちゃった。川の水をすくって顔を洗ったら、ストレスが吹っ飛んじゃったみたい。来月あたり、あなたと近場のどこかに出かけたいな。週末に電話するね。

 

◇教材2

 プラハでは、靴の底がすり減るぐらい歩いたわ。古い石畳の路は少し歩きづらいけど、何かエキゾチックなの。ふらっと立ち飲みの酒場に入ったら、珍しい飲み物を飲んじゃった。持ち帰れないのが残念だけど、珍しい土産は買ったよ。美味しいのに驚いちゃうから。十月三日、帰国するね。

 

◇教材3

連絡しなかったけど、今入院中です。府中駅の階段で、最後の一段のところでつまずいたら、大変なことになってしまったの。肩の骨を折ってしまって、大手術よ。その後は順調なのだけど、まだ、二週間も入院が続くんですって。時間があったら来てよ。話をしたいことがいっぱいあるから。じゃあ、バイバイ。